暫定委員会議事録 1945年7月6日

原文は以下:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/pdfs/9-7.pdf#zoom=100 )
(* 青字は私の註)


暫定委員会議事録
1945年7月6日 金曜日
午前09:30〜午後12:45

出 席 者

委員会メンバー
バニーバー・ブッシュ博士
カール・T・コンプトン博士
ジェームズ・コナント博士
ジョージ・L・ハリソン氏 委員長代行(Acting Chairman)
(* 委員会メンバーについては「暫定委員会について」を参照のこと)

招聘参加者
レスリー・グローヴズ少将




T.ウランのスエーデン埋蔵

 委員会メンバーは、イギリス政府が準備したメモランダムで、スエーデンにおける大量のウラン埋蔵の発見に起因する状況に関する報告を読んだ。ハリソン氏は、7月4日に開催された「合同政策委員会」(*Combined Policy Committee)において、スエーデンの(*ウランの)埋蔵に関して、なし得る限り最大限十分な安全上の目的を持って、その管理について速やかにスエーデン政府と政治的合意に入るよう全会一致で投票が行われたことを説明した。

 ハリソン氏はさらに、この件が国務長官(*ジェームズ・バーンズ。7月3日、エドワード・ステティニアスの後を襲って国務長官に就任したばかりである。)に対してすでに非公式に知らされ、政治的合意の線で速やかな行動をとることに傾いており、その旨を直接ハリソン氏に述べている、ことを報告した。この件に関し、国務省の情報源もすでに準備できていること、また行動は即座に取られるべきであること、など国務長官の意向も報告した。



U.公式発表声明草稿

 大統領声明草稿に関するイギリス政府の提言については、委員会は全面的に(*in toto)これを受け入れる。

(* ここでいう大統領声明とは、原爆投下直後になされるべき、大統領発表のことである。実際には広島への原爆投下直後、1945年8月6日、トルーマン演説としてなされた。スティムソン監修のもとに、ニューヨークタイムズの科学記者、ウイリアム・L・ローレンス、ハーベイ・バンディ、広告代理店屋のアーサー・ページなどが執筆陣となった。この議事録によれば、大統領声明や陸軍長官声明なども事前にイギリス政府に提示して、その合意を取り付けていたものと見える。)

 ハリソン氏は、イギリス政府は、陸軍長官声明の中の、いろいろな過程(*原爆製造の過程)が採用されたこと、またそのいくつかの過程全部が(*原爆製造に関して)成功だったことを立証した、とする部分に多大の関心をもつと宣言した、と報告した。

(* スティムソンは、大統領声明だけでは、アメリカの国民に対して十分な説明責任を果たしていないと考えた。そこで、大統領声明に加えて、原爆開発の詳しいいきさつ、マンハッタン計画の概要など、詳しい説明を盛り込んだ、陸軍長官声明を用意した。下書きは暫定委員会書記を一貫して務めたR・ゴードン・アーネッソンが作成したものだが、文体は明らかにスティムソン自身のものである。今日読み比べてみて、陸軍長官声明の方がはるかに高い資料的価値がある。)

 この異議に関して、委員会は、(*原爆製造の)過程に関して、特定した参照記述は確かに削除すべきであることに同意した。しかし、いくつかの過程はすべて成功だったという記述に関しては、参照記述として避けるべき何らの問題も見られないと、感じている。とうのは、「原爆の使用」が公になるやいなや、一定水準の物理学者なら誰でも、想定できる内容だからである。

(* すなわち、製造を特定する内容の記述は、秘密部分にあたるのかもしれないが、いくつかの工程が存在すること自体は、レベル以上の物理学者なら誰でも知っていることで、秘密でも何でもない、という意味。イギリスの関心が、ソ連の原爆製造のヒントになる部分は削除する、と言う点にあることが分かる。)

 イギリス政府は、(*陸軍長官声明の)第1節の、原爆開発に導いた一連の科学的諸発見に関する要約は、誤解を与えるかもしれない(*misleading)、というのは記述が不完全だからだ、と感じている、と委員会に報告された。

(* 陸軍長官声明から、該当箇所抜き出しておくと。
 『 原爆を生み出し得た一連の科学的発見は、20世紀が始まる時点で放射能が発見された時に始まっている。1939年までは、この分野での仕事は世界中で、特にアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、デンマークなどの諸国で続けられていた。

 ヨーロッパの灯が消えるまで、また戦争の進行によって、安全上の規制を余儀なくされるまで、アメリカをして原爆を実用化に至らしめた原子力エネルギーの基礎的知見は、連合国、枢軸国を問わず多くの国に広く知られていた。しかしながら、戦争はこの問題に関する科学的情報交換を終わらしめた。ただし合衆国、イギリス、カナダ間は例外であった。この分野におけるその他の国々の状況は、よく分かっていない。しかし、日本がこの戦争期間中に原爆を使用できる立場にないことは断言できる。ドイツがそのような兵器の開発に熱心に取り組んでいたことはよく知られている。が、今回の敗北と占領によって、そのような危険は根元から取り除かれた。戦争が始まった時、そのごく近い将来に置いて、戦争目的の原子力エネルギーが開発されるだろうということは明らかだった。問題はどの国がその発見を支配するかであった。

 アメリカの科学が戦争へと動員された時、多数のアメリカの科学者が、この肥沃な新しい分野での科学的知見へ、その限界に向かってなだれ込んでいった。
ヨーロッパで戦争が始まったときにはすでにイギリスで原子核の分裂に関する研究が進歩していた。アメリカとイギリスは、軍事上の重要事項に関するいろいろな科学的研究事項と共に、この面での研究情報を共同利用する体制ができており、イギリスでの調査とアメリカでの研究を密接に連関させ続けた。その後ルーズベルト大統領とチャーチル首相の間で、この計画をもっとも早急かつ効率的に成果を出させるために全ての研究をアメリカに集中し、そうすることによって緊密な共同研究を保証し、また同じことの同時並行作業を避けることで合意を見た。この結果1943年の後半には、この問題に関わってきたイギリス側の科学者がアメリカに移転し、その時以来彼らもアメリカで計画進展に参加するようになった。 』
 
 この点に関して、委員会は、戦争前の核物理学分野における一般的な世界共通の知見に限定した形で、特定の物理学者の貢献に触れないで、この節が解釈できるようにすべきであるという点で同意した。この科学上の声明(*陸軍長官声明のこと)に関しては今、この計画(*マンハッタン計画のこと)の科学者たちの、了解作業中である。

 ブッシュ博士は7月4日のCPC(*アメリカとイギリスによる、合同政策委員会のこと)会合で、この計画の科学的沿革の一般論を、一般大衆に知らせないことによって、得られる有益な目的はなにもない、と強く主張しておいた、と述べた。ブッシュ博士の提言によれば、合同政策委員会は以下の点で合意した。
(1) この案件に関しての情報公開を、基本原則と状況をセットにして統御することを承認すべきである。
(2) この科学上の声明はこうした基本原則の線で準備されるべきである。なおこの点はイギリス政府を代表して、ジェームズ・チャドウイック卿の承認を取り付けてある。

(* ジェームズ・チャドウイック卿=Sir James Chadwick。イギリスの核物理学者で中性子の発見者。ノーベル賞受賞者。マンハッタン計画にも参加していた。詳しくは、http://en.wikipedia.org/wiki/James_Chadwick またはhttp://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1935/chadwick-bio.html )



V.ウレイ博士

 参考情報として、ハリソン氏は、6月27日付けのアーサーH・コンプトン宛の彼自身の手紙を読み上げた。その手紙で、暫定委員会としては現時点で、科学顧問団の拡張を考えていない、しかし科学顧問団はウレイ博士やその他の科学者の、この計画(*マンハッタン計画のこと)に関する見解を、彼らが心配を表明しているごとく、獲得すべきであり、また科学顧問団は、その見解を受け入れるべきかどうかを決定すべきであり、また考慮すべき案件として委員会に上げられるべきである、とした内容だった。

(* まるでわけのわからない文章だ。しかし、この日の委員会にもグローヴズは出席しており、この手紙がグローヴズの前で読み上げられている情景を想像すると、いかにも興味深い。

 アーサー・コンプトンは、マンハッタン計画のシカゴ大学冶金工学研究所の所長であり、いわばシカゴ・グループを統括する立場にある。またアーサー・コンプトンはこの手紙で触れられている、「暫定委員会・科学顧問団」の4人のメンバーの一人である。またシカゴ・グループは、「原爆の実戦使用」(すなわち日本への使用)には強く反対を表明してきた。「大統領への請願書」を書いたレオ・シラード、フランクレポートを提出したフランク委員会のメンバーもみなシカゴ・グループである。

 ソ連との冷戦を開始するため、トルーマン政権中枢は、「原爆の日本への使用」をこの暫定委員会の大統領宛提言という形で、すでに決定していた。シカゴ・グループはこの決定に影響を与えるため、すなわち原爆実戦使用の決定を覆すことを目的として、4人の科学顧問団の拡張を提案し、シカゴ・グループの重鎮であり、ノーベル賞学者のハロルド・ウレイを新たなメンバーとして加えるように提案し、この日の委員会までに却下されていた。

 ハリソンの手紙は、この問題に決着をつけたことを報告するものとも思えるし、まだシカゴ・グループの意向を受け入れる姿勢を示したものとも受け取れる。しかしこの委員会の時点では、すでに決着済みの問題であり、「日本への原爆使用」はもう動かせない既定路線となっていた。

 微妙なのは、アーサー・コンプトンの立場である。暫定委員会のメンバーでもあるカール・コンプトンの弟でもあり、4人の科学顧問団の一人であり、その科学顧問団はすでに6月16日「警告なしの原爆使用」を、顧問団全会一致の勧告として委員会に報告していた。当然コンプトンは、「警告なしの原爆使用」派と見られている。

 余談となるが、シカゴ・グループの中でも、もっとも頑強な「原爆使用反対」派だった、レオ・シラードは、原爆の使用反対を訴えるため、ルーズベルト夫人を通じて、ルーズベルト大統領の面会約束を取り付ける。1945年4月のことだ。ルーズベルトに面会する直前、ルーズベルトは急死して、シラードの目論見は崩れるのだが、この時シラードは、所長のアーサー・コンプトンに面会している。

 1960年シラードがUSニューズ・ワールド・リポートに語っている記事から引用しよう。
 『 1945年3月、ルーズベルト大統領に提出するメモランダムを準備しました。
 そのメモランダムの内容は、日本に対する原爆の使用は、ソ連との原子力競争をスタートすることになる、と警告する内容でした。
 そうして、日本を戦争からノックアウトするという短期的目標より、そのような軍拡競争の開始を避けることの方が重要ではないのか、と言う問題提起をしたものでした。

 私はこのメモランダムをいわゆる「チャンネル」を通じて提出した場合に、確実に大統領の手元に届くかどうか確証がもてませんでした。そこで私は、ルーズベルト夫人に面会を申し込んで、私のメモランダム−封印した封筒に入れていました−を彼女の手を通じて大統領に渡すつもりでした。

 ルーズベルト夫人が私との面会を整えてくれた時、私は、シカゴプロジェクトの責任者アーサー・H・コンプトンに会いに行きました。

 私はコンプトンが私のメモランダムの内容に異議をはさむものと思っていました。

 だから、コンプトンが私に、私がメモランダムを直接手渡して大統領の関心を引いて欲しいものだ、と云ってくれた時には救われた思いがしました。』
   (このインタビューは次。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/reo.htm )

 だから、コンプトンも内心は、人道主義の立場から、日本への原爆使用には反対ではなかったか、と私は想像している。

 一方グローヴズは、こうしたシカゴ・グループの存在を計画全体に対する「害悪」ととらえており、シカゴ・グループの科学者たちのことを、「シカゴの雑草」と呼んでいた。)



W.三巨頭会談 (BIG THREE CONFERENCE)

 ハリソン氏は、三巨頭会談(*ポツダム会談のこと)に関連した直近の暫定委員会の議論とその立場は、すでに陸軍長官に伝えれており、陸軍長官も委員会の勧告には、満腔の賛意を示している、特に会談(*ポツダム会談)と原爆の実際の使用の間が短い時間である、ことに賛意を示している、と報告した。また陸軍長官は、この問題について、大統領と話す際、委員会勧告を強く裏書きした。




X.法制化 (LEGISLATION)

 戦後「統御コミッション」設立に関して考察するための討議の後、注意深い考慮を払われるべき多くの未解決の問題が存在していることは明白である、特にこのコミッションと、ブッシュ博士が大統領に提出した報告書で想定しているような、総合的研究機構との関係などが大きな未解決の問題である。
(* ここの記述は、何が、どう問題だったのかを推測する手がかりを与えてくれる。

 「日本に対する原爆の使用」は、戦後冷戦構造を創り出す目的を持っていた。“冷戦”と言う言葉は、戦後ネーミングされたものだから、この委員会のメンバーたちの意識にたって言葉を探してみると、準戦時体制、というべきだろう。

 この準戦時体制は、当然軍産学複合体制がその骨格をなす。軍産学複合体制は「政治」を表舞台にして、連邦予算を自由に使っていくと言う体制でもある。ここでいうコミッションは、戦後成立した米原子力委員会を想定してみると、当初はマンハッタン計画の施設、機能、人員をそっくり移管して作られているから、当然軍部主導の体制となる。いいかえれば、核兵器を中心とした原子力エネルギー分野は、戦時体制同様、準戦時体制においても軍部ががっちり握っておこう、と言う体制となる。

 一方、ここで「ブッシュ博士が大統領に提出した提案」と言っているのは、ブッシュの「科学、この終わりなきフロンティア」のことだろう。ブッシュが構想したのは、軍部を含む政府関係諸機関及び議会からも独立して、国家政策として科学的研究開発を進める機関を作り、専門科学者(テクノクラシー)を中心とした理事会が、強大な力をもって、研究開発を推進していこうというものだ。もちろん連邦予算をふんだんに使う。ブッシュは当然その中心に座る。

 こうして見ると、この暫定委員会の記述は、早くも軍産学複合体制内での主導権争いが発生していたとみることができる。その後の経過をみれば、核兵器を中心とした原子力エネルギー分野だけに限定すれば、原子力委員会が成立し、ブッシュ構想は事実上空中分解、換骨奪胎してしまうわけだから、軍部が勝利した、と言うことになろう。)
 
 ハリソン氏は、ロイヤル将軍やマーベリー氏(*7月19日暫定委員会議事録を参照のこと。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_7_19.htm )は、行動における、より大きくより自由な力を、コミッションに与えることが、より適切、と言う考え方に好意的である、と報告した。ハリソン氏は現在の組織、すなわちマンハッタン地区は(*マンハッタン計画のこと)、新たな法律ができ、それが機能するまで、現状維持すべきであるとの見解を表明した。まず重要なことは、このコミッションが十分に憲法上の力をもって設立され、機能していくことなのであり、それから初期に必要な細部を決定し、(*ブッシュ博士が提唱しているような)総体的研究機関との関係を考慮していくべきであると表明した。

  委員会は、法制化法案整備作業の指針として、ブッシュ博士が、コナント博士の補助を得て、ロイヤル将軍やマーベリー氏が採択できるような一連の基本原則を書き上げることで同意した。

Y.次回会合

 次回会合は、実験(*最初の原爆実験のこと)の日付いかんによると感じられる。したがって次回会合は、7月18日から21日の間で行われるべきである。その時に委員会は、法制化小委員会の報告を検討するものとする。

 会議は午後12時15分に終了した。


R・ゴードン・アーネッソン
陸軍中尉
書記